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見掛けたのは本当に偶然だった。
年輩のお茶の生徒の紹介で、新しく面倒を見ることになった生徒との顔合わせに向かう途中、静留は美星方面行きのバスの中から外を眺めていた。
左折する時に目に入った道路脇のコンビニエンス・ストア。その駐車場に停まっていた、よく知っている濃紺のバイク。
その脇に佇んでいる、艶やかな長い黒髪。見慣れたライディング・スーツ。見間違えるはずなどない背中。
角を曲がって見えた、なつきの真直ぐな視線の先に、黒っぽいライディング・スーツを着てヘルメットを片手に持った、見知らぬ若い男が立っていた。
なつきは笑っていた。楽しそうに。
その男は、とても自然にドゥカティのタンデムシートに右手をついていた。

ただそれだけのこと。

火でもついたように一瞬ずきりと胸が詰まったのも、降車ボタンを押そうとして、それでどうするのかと手を止めたのも、触るなと言いたかったのも、なつきには関係のない話で。
シートに掛かった手に、まるでなつきに手を掛けられたような気がしたのはただの錯覚で。
その子はうちのもんやと男の目の前から攫っていってしまいたかったのは、叶うことのない願望で。
何があった訳でもない。
少し冷静になって、きっとただの友達だろうと考えて、うちかてそうやと事実に嗤った。

こうやって毎日毎日、自分の知らない所でなつきの世界は広がってゆく。
そんなのは当たり前のこと。
相変わらずぶっきらぼうで、少し解り辛いけれど、元々、真直ぐで優しい子だ。他人を拒絶するようではなくなった彼女の周りには、これからも沢山の人が増えてゆくのだろう。
そうして、いつかは。

ばんっ、と突然風圧に目の前の扉が震えた。窓の視界を対向する電車に遮られ、音と唐突な影に驚いて、外に意識が向く。
新しいお茶の生徒との顔合わせの後、紹介者の古参の生徒に、お礼にと設けられた席を無碍にも出来ずに呼ばれた帰り。
電車は週半ばの平日にしては混んでいる。けたたましく響く電車の駆け抜ける音に紛れて車内のどこからか音楽が聞こえたような気がした。
扉の脇に立った静留は、電車が擦れ違い終えると再び街の明かりが夜の中を流れるのを瞳に映した。

本当に、どうという話でもないのに。
なつきの携帯に電話を掛けた自分が浅ましくて笑ってしまう。
繋がらなかった理由まで考えるはめになる。

電車が減速し、車内が前後に少し煽られる。左手で手摺に掴まったまま、静留は俯いて小さく息を吐いた。逢いに行ってもいいかと、2度目の電話は掛け辛かった。この時間では、用もなく立ち寄るには些か遅過ぎる。

蛍光灯の明かりに白く浮かんだホームが窓の外に流れて止まり、静留の背中の方から扉が開く音が聞こえた。ざわざわと客が降り、冷気と共に人々が乗り込んでくる。人の出入りに、肩に掛けていたショルダーバッグを右手で胸に抱えて、入れ替わった空気に静留は小さく深呼吸をした。
心の中で苦く笑う。こんな気持ちを抱きたくはないのに。
逢いに行ったところで、それでどうなるものでもない。

それでも、ただ逢いたくて。
あれは誰だと、安心させて欲しくて。
どうしてなのか、どこにいたのか尋ねたいだけ。
──なつきが答える必要はどこにもない。どこを探しても。

乗客が少し減り、窮屈に立っていた窓際から静留は少し身体を離した。
再び走り出した電車が夜の街に紛れると、扉の窓には無表情な顔をした自分の姿が映っている。こんな顔をなつきには見せたくない。

‥‥なあ。
あんた、ほんまにあの子が大切なん?
あの子のこと、ちゃあんと考えとるん?

なつきにとっては大事な友達なのだろうし、口を挟むようなことでもない。

‥‥せやね。逢いに行かん方がええ。

けれどバイクのシートに置かれていた男の手が頭から離れない。

  誰も乗せないとは言わないけど

いつかの雪の日になつきが言っていた言葉が脳裏を過る。
静留は電車の揺れに紛れてひっそり溜め息を落とした。

一緒にいられればそれでいいはずなのに。
近くにいればいるほど感じてしまう。
無理矢理に目を逸らす度に、ほんの些細な端々で、違うのだ、と羽が降る。
風を切るように心を切り裂き 欺くほどに深く刺さる。
柔らかな暖かさに隠れて、緩慢に優しく息を殺されてゆく。

窓に映った表情のない自分の影に、静留は静かに顔を伏せた。



道路側から見えるなつきの部屋の明かりは消えていた。
電話は掛けなかった。だからここに来たことをなつきは知らない。
こんな自分を、なつきは知らない。
よかった、とどこか痛みながら安堵する。こんな姿を知って欲しくはない。

ひとつ嘆息し、もう帰ろう、と薄茶の長い髪を翻らせて静留は踵を返した。
すっと、音もなく闇の中を走り抜ける猫の姿に驚いて一瞬足が止まる。
猫はマンションの駐車場の奥に消えていった。目に入った駐車場のいつもの場所に、なつきのバイクが駐輪してある。一度帰っては来たのかと、引き寄せられるように静留はバイクに足を向けた。

深く艶やかな濃紺のドゥカティ。露の降りたタンデムシート。
跡が付くだろうと少し躊躇って、静留は左手の指先でそっとシートに触れた。
眠りについたように冷たい感触。最近はずっと遠離けていた。
静かな瞳のままほんの僅かに目を細めて、微かに笑み掛けるような顔になる。

何を約束したのでもない。けれど座れと言ってくれた。
たったひとつの、なつきの命の隣。

それだけのことが泣きそうなほど暖かい。

「‥‥‥」

解っていたはずだった。
想いを伝える気が無かった頃は漠然と覚悟を決めていたのに。
あれが誰かは解らない。
でもなつきは普通の女の子だ。自分とは違う。
いつそういう日が来てもおかしくはない。

静留はシートに突いた左手を何かを掴むように軽く握った。虚空を掴んだ濡れた指先にはシートの冷たさが移っている。息苦しさを感じて、ひとつ息を吐いた。

なつきが他の誰かを望むなら、きっと側にいることすら出来なくなる。
今となっては多分、気持ちを誤魔化して笑って隣になどいられない。
想いを告げてしまった以上、なつきにしても自分が側にいたら重荷に感じることだろう。

思わず握り締めてしまった左手に視線を落とすと、もうひとつ息を吐いた。

重荷に思われるんは敵んなぁ‥‥それはあかん。

静留は自嘲するように口角を上げた。
やはり神経質になっている。何があった訳でもないのに。
なつきが自分の知らない男と一緒にいただけ。それだけのこと。こんな些細な刺に傷むのは今に始まったことではない。

ほんまに、どうかしとる‥‥

ただ、自分の想いの終わりを見てしまった気がしただけだ。
いつそういう日が来てもおかしくないと知っていたのに、こんな小さなことにすら動揺する。こんなに弱くなってしまったのはいつからだろう。
静留は内心で苦笑しながら何かに思い当たったように少し眉を上げ、それから微かに睫を伏せた。

せやね‥‥うち、幸せなんや‥

だから、今の関係を無くすのが恐い。

「‥‥‥」

──自分相手やと、えらい難儀やねぇ。

ここでないどこかを眺めるような目をして、もう一度ドゥカティのシートを撫で、静留は自分を韜晦するのを諦めて溜め息のように小さく笑った。

なんでもない、些細なことだと目を瞑ったところで、何も変わらない。
なつきは側にいてくれる。違うのだと傷付くことはあっても、それだけで暖かくて幸せだ。それは本当に本当に嬉しくて。
でも、違うからこそ、この関係がずっと続くはずもない。

「‥‥‥」

考えれば考えるほど苦しくなる。出口のない堂々回りだ。
続くはずがないと知っていて、嗤って目を逸らす以外にできることもない。
あるとすれば、それは自分が一番望み、恐れていることで。

ふ、と小さな笑いが漏れ、溜め息に変わった。

求めることはいつも失うことと隣り合わせで。
曖昧にしておけば続くはずのものを、どうしてそっとしておけないのか。
この穏やかな日常が続くことを切望しながら、どこかで終わりを願っている。

静留は深く目を閉じると、大きく息を吸って吐いた。

ほんまに、もう帰らんと。

バイクを背にして、静留は視線を落としたまま物思いに沈みながら、マンションの敷地を横切って道路に向かって歩き出した。

「‥‥静留?」

いつでもいつまでも聞いていたい、今一番聞きたくない声がした。



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