6
マンションの敷地を道路へ向かっていた静留の足がぎくりと止まった。
息を呑んだまま、静留が恐れたように声のした方を見ると、少し離れた街灯の下に、コンビニのものらしき四角張った袋を手にし、紺色のコートのポケットに片手を突っ込んで、なつきが小首を傾げて立っていた。
「やっぱり。どうしたんだ?」
歩み寄ってくるなつきに軽く笑い掛けられ、静留は思わず右手でバッグのストラップを強く握り締めた。
声を聞いてしまえば、顔を見てしまえば平静を装うのは酷く難しい。
このまま抱き締めてしまいたかった。誰にも取られないように。
一度俯いて密かに息を吐く。
逢わずに帰ろうと思っていたのに、気持ちのどこかで待ってしまっていたらしい。少し気まずく口の端を上げて、静留は自分の方に向かってくるなつきに、いつもと変わらないように曖昧に柔らかく微笑んだ。
「近くまで来たさかい、ちょぉ逢いとうなって」
「なんだ、それなら電話くれればよかったのに」
「夕方掛けたんやけど、繋がらへんかったし。電源入ってないんと違う?」
「え? ‥‥あ、すまない」
なつきは慌てたように片手でコートのポケットを探っている。携帯電話が見つからないのか、困ったような顔をした。
「でも夕方掛けたって‥‥まあ、入れ違いにならなくて良かった」
「せや。なつき、今日美星の方行かはった?」
「え‥‥。」
「ちょっとな。よぉ似たはる人見掛けたもんやから」
「きょ、今日はたまたまだ。最近はそんなにサボってないっ」
不貞たような返事をし、なつきはそのままマンションに向かおうとする。
黙って立ち止まったままの静留に気がついてか、小言を言われると思っていたのか、振り向いたなつきは少し不思議そうな顔をしている。
「寄っていくんだろう?」
「‥‥せやなあ、折角やけど、もうええ時間やし。今日は遠慮しときます」
「それなら後ですぐに送ってやるから」
なつきはコンビニの袋をぶら提げて、静留の前を通り過ぎマンションへ向かってゆく。なつきの背を見送るのに堪え切れなくなって静留は声を掛けた。
「なあ、なつき」
「ん?」
振り向いたなつきに、静留は静かに微笑んだまま一度視線を落とした。
「──うち、待っとってええんやろか?」
え、というなつきの呟きに静留が視線を見上げると、言葉の意味を取りかねたのか、なつきは困惑したような難しい顔をして静留を見つめている。静留は溜め息のように笑うと後を続けた。
「せやから、送ってくれはるんやったら、うち、ここで待っとってええんかな、て」
「ぁ‥‥なんだ本当に帰るのか?」
「それ置きに行かはるんやろ?」
静留は少し微笑みながら目線でなつきの左手の袋を指した。
「‥‥分かった。ヘルメット取ってくるから待ってろ」
「それ、お弁当やないん?」
四角張った袋の形から、何となく弁当だろうと想像はついていた。なつきは微かに小首を傾げ、少し困ったような素振りでコンビニの袋を軽く持ち上げた。
「ああ、これか」
「せやったらうち、電車で帰るさかい、無理せんでええよ」
「20分もあれば往復できる」
「そんなんあかんて。ご飯冷めてしまいますやろ」
困惑したような表情でなつきは真直ぐ静留を見ている。
「急ぎの用でもあるのか?」
「そやないけど、もう遅いやろ」
「コーヒーくらい出せるぞ?」
なつきが掛けてくれた嬉しいはずの言葉が、複雑な思いの中に消える。
なぁ。何でそない困ったみたいな顔して笑わはるん?
何で謝るみたいにコーヒーなんて淹れてくれはるん?
「静留?」
ふと無性に恋しくなる。
優しいような悲しいような衝動は、酷く単純なだけに強かった。
「‥‥どうしたんだ?」
近付いてくる声に、静留は視線を上げ、笑み掛けてなつきの歩みを止めた。それ以上近付いて欲しくない。言葉を待つようになつきは小首を傾げている。
「なつきこそ疲れたはるみたいやし。気張ってお掃除し過ぎなん違いますん?」
「掃除? あ、いやあれはおまえが試験だったし」
「そんなん気ぃ回さんでええのに」
「普段は片付けろっていう癖に。どうかしたのか?」
「ふふ、せやね。堪忍。今日はお茶の方で少しあったさかい、ちょぉ疲れとるだけどす」
「なら本当に送るぞ?」
「ああ、そんな意味やあらへんよ」
つい本音の混ざってしまった自分の失言に少し眉を顰めて静留は苦笑した。
「ほんまに平気どす。おおきに」
どういう意味なのか、なつきは一度静留から視線を外すと、難しい顔をして静留に歩み寄ってくる。静留は内心で溜め息を吐いた。
触れたい。抱き締めたい。欲しい。今。
だから躱したいのになつきだけは上手く躱せない。
「なつき、お腹空いてはるんやろ? ならはよ帰ってご飯食べんと」
「構わない」
「それに雨降ってきそうやし、うちも帰らな」
「何か用があったんじゃないのか?」
「ええ。大事な用事どす。あんたの可愛らしい顔見にきたんやし? 仰山見せて貰いましたわ」
照れて顔を逸らして欲しかったのだが、なつきは怪訝な表情をしている。
仕方なく静留は満面の笑みを浮かべてみせた。
今は本当に不安定過ぎる。切り返せない。ここを離れたい。
「堪忍な。ご飯、冷めてしもたやろ。ほなまたな」
そう笑うと静留はなつきに背を向け歩き出した。
唐突にがくんと右手を引かれて驚き、振り向くと、バッグを提げた右肘の辺りを掴んで、なつきが問い掛けるような真面目な顔で静留を見つめている。
手を伸ばせば抱き締められる距離。
「‥‥どないしはったん?」
「こっちの台詞だ」
──手を離して欲しい。
「静留、言ってくれないと解らない」
「何がどす?」
「いや‥すまない‥でも‥」
「いきなりやなあ。ほんまになんどす?」
「‥‥‥」
「なつきこそ、うちに話したいことあるんやないん?」
何か口籠って、なつきは口を噤んだ。
迷ったような瞳のままで、それでも腕を離してはくれない。
「せやなあ、今うち、お月さん見たいんどすけど?」
「え?」
静留の言葉に、なつきは空を見上げた。暗く厚くどんよりと雲が天を覆って、手前に流れ雲が黒く走っている。 静留は穏やかな声のまま言葉を続けた。
「ふふ、冗談どす。見たい言うてもどうにもならんし」
できることなら。
言えることなら言っている。
部屋に寄って指を絡めて名を囁いて吐息を飲んで素肌を重ねて
そうやって、愛していると伝えたい。
──ちょっと、ひどい。
なんだかふと泣きたくなって思わず静留は笑ってしまった。
静留の笑いをどう受け止めたのか、なつきは何か困ったような顔で、それでも真直ぐに静留を見つめている。
なつきは綺麗だ。綺麗で優しくて酷く冷たい。
掴まれた腕から伝わるなつきの掌の感触。じんわりと籠る熱。
それは幸せな獄だ。
優しくて暖かい、愛しい愛しい、残酷な軛。
「静留?」
名を呼んでくれる声。間近で聞こえた。
やめて欲しい。今は。
見つめたすぐ側にどこか思い詰めたようにも見えるなつきの顔がある。
その口許がとても近く感じた。
どくん、と鼓動が痛い。
思わず息をつめた。
なつき。なつき。なつき。
心臓が脈打っている。頭蓋に反響する。
何か苦しいようななつきの視線から目を逸らせない。
酷く勝手な色に心が染まる。
手を伸ばすのが恐い。
白い吐息が絡む。
鼓動が煩い。
堪えられなかった。
なつきの視線を深い深い紅の瞳で受け止めて、ふと目を細めて静留は左手をゆっくりなつきの頬の方へ黙って差し伸べた。
嫌がってくれたほうがいっそ良かった。
目の前のなつきは少し驚いたような顔をする。
けれど、あの日のように逃れようとはしない。
それだけで頽れそうになる。思わず理由の定かでない微笑みが浮かんだ。
差し伸べた掌に、寒さのせいか羞恥のせいか熱を帯びたなつきの滑らかな頬。
今手を離せば間に合う。
最近元気ないみたいやし、心配しとったんえとでも言えば。
生真面目な表情で、なつきは一度静留の掌に視線を落とし、静留の目を見返した。照れ屋のなつきにしては珍しく、真直ぐな視線を向けてそのまま静留の瞳をじっと見つめている。
引き込まれそうなその真直ぐな双眸に、速まる鼓動が息苦しくて小さく息を飲んだ。
手折った夜。閉ざされたままのこの瞳に、口付ける気にはなれなかった。
いつの間にか自分の唇が薄く開きかけているのに気付く。
嫌がってはいない。怯えても。だからきっと。きっと──
──嫌ぁ‥っ!
喉まででかかった言葉を微笑んで止め、頬に添えた左手でなつきの髪を梳いて、静留は寄せかけた顔を俯けて深く目を閉じた。
どこが違う。
悲鳴。拒絶。恐怖嫌悪怯えた瞳。
熱が籠る。肺に喉に。胸が焼けて息が出来ない。
なつきが好き。なつきが欲しい。欲しい。欲しい。
無理矢理なのは同じだ。ここに心はないのに。
どんなに特別でも恋人とは呼ばせて貰えないのに。
「‥静‥」
「なぁ‥‥」
俯いていた静留はゆっくりと顔を上げた。
当惑したようななつきの顔。微かな熱を帯びた白い息が頬に掛かるほど間近。
冗談どす、と。堪忍、と。
「‥‥うちは」
潮時だ。次はきっと止まれない。
「あんたの、なんなんやろ‥‥」
口許だけ笑った静留の問いになつきは驚いたように目を少し見開いた。
暫く静留の顔をじっと見つめていたが、そこに答を見つけられなかったのか、視線を落とし、険しい顔をしてぐっと口を噤んでいる。
さらりと落ちた前髪の影から覗く、苦渋に歪んだような柳眉。地面を睨むように落とされた視線。ここまで苦しめてしまったことが胸に痛かった。ただなつきが痛々しい。こんな風に傷付けるつもりではなかった。後悔で全身が軋むがもう遅い。
なつきを傷付けるもんは それがなんであろうと──
静留は震えかけた喉の言葉を飲み込んだ。
俯いたなつきの口許が微かに何かの言葉を呟いた。
声は聞こえなかった。けれど、それが何であるか聞こえたような気がした。
なつきは真直ぐで、大事な時に嘘をついたりしない。
こういう所も好きなのだと、酷く淋しく笑みが浮かんだ。
せやね‥‥
「‥‥堪忍‥おかしなこと聞いて。なつき。もう‥‥ええんどす」
なつきの右手に力が籠る。自分でも気付いているのだろうに、それでもぎゅっと腕を離さないでいてくれるなつきが愛おしくて苦しそうで見ていられない。抱き締めてしまいそうになる。
でもそれはできない。それこそもう止まれない。
何時の間にか流れ雲は駆け去り、天を暗く覆っていた厚い雲から、ぽつり、ぽつりと、待ち詫びていたように雨が降り出した。
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