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夏兎
 

2

「静留ー、勝手に開けるぞー」

寝室の方から聞こえてくるなつきの声に、ええよ、と答えながら静留は冷たい茶を用意する。
忘れ物だか泊まり用だか解らないうちに増えていたなつきの着替えが今では箪笥の引き出しの一角を占めている。自由に開けていいと言っているのに、なつきは律儀に毎回声を掛けてきた。
居間にグラスを運ぶと、ほどなくなつきが着替えを持ってやってきた。

「ちょっと甘かったな」

暑い中、水も無しに摘んだ綿菓子が少し喉に残ったのだろう。ありがとう、と礼を言い、なつきはグラスに手を伸ばした。

「またなつきは。ほんま、お行儀悪おすえ」

ん?と立ったまま、なつきはグラスを傾けて横目で静留を見、少し煩そうな顔をする。一気に茶を飲み干すと、ふぅ、と息を吐いた。

「細かいこと言うな。じゃあ悪いが先に借りるぞ」
「タオルの場所、解るやろ?」

静留は苦笑しながら、なつきからグラスを受け取った。

「ああ」
「ほな、上がったら、うちとええことしましょうな」
「──え?」
「汗、かきましたやろ? はよ入りよし」
「ちょっ、待て」
「ん? 一緒に入りたいん?」
「入るかっ!」
「まぁそう照れんと」
「誰がっ」

慌てたように風呂場に消えるなつきを笑って見送って、静留は涼しい顔で付け加えた。

「あんまりゆっくりしはると、のぼせますえー?」




風呂上がりの火照りが夜風に流されてゆく。
薄くグラデーションの掛かった淡い桃色に、足元に小花を散らした浴衣。橙掛かった綺麗な黄色の帯を締めたなつきは、小さなバケツを片手に今更のように溜め息をつく。

「まったくおまえは」

それならそうと初めから──

今更と言えば今更だ。でも不意に変なことを言うから。
どぎまぎしたのが馬鹿みたいだ。

「ん?」

微かに憮然としながら見詰めた先の、ちらりと問うような色が浮かんだ赤い瞳。

なんやと思ってたん?

そう笑っているようで、増々なんだか言い返せない。

「‥‥なんでもない」

自己完結したなつきにふと背中を向けて静留は夜道を歩き出す。涼しくなったとはいえ、それでも密度の高い闇の中に浮かぶ、淡い藤色の地に上品な色の大輪の赤い花をあしらった浴衣。結い上げられた青紫色の帯とその背中が心持ち震えているような気がする。‥‥絶対笑っている。

まったく、なんでこいつはこう人をからかうのが‥‥

「──もう結構遅いぞ?」
「せやなぁ。まぁ喧しいのやないし」

ふん、といつもの癖で右手で緩く編んだ髪を肩越しに払うと、浴衣の袖が腕に少し絡んだ。目に映る、普段は着ない優しい色。

冗談だと分かっているのに、それでも静留が風呂から上がるのをどうも少し落ち着かないような気分で待っていると、差し出されたのがこの浴衣だった。面喰らって結局そのまま素直に受け取っていた。
静留が着れば、それでも綺麗に見えるだろう、自分にはかなり可愛い色合い。正直、慣れなくて少し居心地が悪い。

──こんなのは、私には‥‥

「よぉ似合うたはるえ?」

気後れして黙って歩いていると、いつの間にか振り向いていた静留にそう笑い掛けられた。本当に嬉しそうに言うので、なつきは思わず恥ずかしくなって視線を外し、先に立っていた静留の方へゆっくり歩く。

「‥‥‥」

並びかけると静留も同じ速度で歩き出す。

「なつきは綺麗な黒髪やさかい、ほんまよぉ映えるわ」

──だから、か‥‥

花火の時に、ちょっと見ていただけなのに。
こういう優しい可愛い色合いの格好をしたくない訳じゃない。
馬鹿だな、と、どっちに宛てたものだか解らないことを思って、なつきは小さく苦笑した。

「ちょっと歩き辛いな」
「ああ、せやろな。ちょぉ違うやろね」

静留の冗談は。時々、冗談じゃなくて。
優しい嘘だったり、本音だったりするから。
本当に、困る。
何度言っても、そんな風にしか見せてくれないから。




辿り着いた公園の入り口付近で適当に場所を取る。半分ほど水を汲んだバケツを傍らに置くと、なつきはしゃがみ込み、持ってきた蚊取り線香と、細いろうそくに火をつけた。橙色の小さな揺らめく焔が夕焼けのミニチュアのように地面をぼんやり染める。礼を言って向かいに座った静留は赤い箱を取り出した。
なつきが覗き込むと、見易いように傾けられた箱の中には、南国の極彩色の鳥のような彩りの、どこか端正な紙縒りが数束。金の紙帯で丁寧に纏められている。

「へえ‥綺麗だな」
「大事に作ったはるんやろね」

そう笑って、それこそ大事そうに一本線香花火を抜き取ると、静留はなつきにそれを手渡す。ん、とそれを受け取り、静留がもう一本手に取るのを待って、なつきは赤く彩られたその先端をろうそくの焔に翳した。
ゆるゆると弱い風に乗り、仄かに香る、火薬の燃える独特の匂い。

しゅるしゅると吹き出す小さな焔が安定して、じじ、と少しずつ丸まり出す。やがて力に溢れたような真ん丸な火球がくつくつと震え出す。表面を流れるようなオレンジ色の胎動。
ちっ、ちちっ、と微かな音とともに、細い火花が目覚めを告げる。
──小さな、小さな、宴が始まる。


「あ──」

ぽとりと落ちた赤い光が、地面の上でじんわりと黒く変わる。

「あら残念。なつき、風に向かって座ったはるさかい」

数本目になつきが火を灯した線香花火の火の玉は、なまじ大きかったせいか、急に吹いて来た風に煽られて堪え切れずに落ちてしまった。

「火傷してへん?」
「平気だ」

なつきに声を掛けた静留の方を見ると、なつきは不意に立ち上がり、静留の横にぴったり並んでしゃがみ込んだ。
風上にいた静留の手の中、小さく咲いている線香花火の灯火を護るように、静留に身を寄せて風避けになっている。なんとは無しに満足そうに見える、散ってゆく火花を眺めるなつきの様子に静留は笑みを深くした。

──ほんま、なんやろなぁ。

冗談混じりにくっつくと照れて怒るくせに、全然気付いていない。
自分でも呆れてしまうが、こんな風に不意に近付かれると今でも少しどきりとする。折角護ってくれている線香花火を、一瞬忘れそうになった。
静留は僅かに目を細めて、花火を見詰めているなつきの様子に心の内で笑うと、しゃがんだまま左手で浴衣の袂を捌き、伸ばした腕の先の小さな灯りに視線を落とした。
ちりっ、ちりっ、と微かな音を立てながら、細い複雑な橙色の光が散ってゆく。

「季節みたいやね」
「うん?」
「変わりますやろ? 春、夏、秋、冬。似てる思わへん?」

静かに力を秘めて芽吹き。
華やかに盛りを迎え。大輪の火花を散らし。
やがてたおやかに、緩やかに流れて。
最後に遠い流星群のような、小さな小さな宴の残滓。

そう言えば、線香花火を人生に例えていたのは誰の書いた話だったか。
人生を季節に例えることもあるから、まあ大差はないのかも知れない。
なつきが風から護ってくれなかったら、途中で落ちてしまったかも知れない線香花火の灯火は、季節よりも人の命の方がより上手く言い表わしているのか、とも思う。

薄い風に煽られてほんの僅かに線香花火が揺れて残像を描く。

「‥‥‥」

──赤い、風。

ぽとり、と。

落ちた。沈んで消えた。


落とした灯火。


今はもう、なかったはずの。
記憶の中の。


手元の、もう微かにしか火花を流さなくなったオレンジ色の光が、すぅっと暗くなってゆく。
ふつりと灯りの消えた紙縒り。一層深く落ちた闇。
凍り付いたように震えることも無い指先を、どこかで厭わしく思い。ありがたく思い。

現実はひとつきりで。
けれど。
麻痺したような胸の裡。
動かない、もう誰も触れられない静かな冷たい赤い闇。

「ほら」
「──?」

引きずり込まれかけた物思いの淵から引き戻される。視界に入った光にふと視線を移すと、小さく火を吹いて、まだ安定していない線香花火が差し出されている。不思議に思って静留はなつきを見た。よこせ、と燃え残った紙縒りを左手で静留の手から受け取りながら、なつきは問いかけるような目をして、微かに微笑んでいるようだった。

「ほら、早くしろ」

促されるまま静留は新しい線香花火を受け取った。

「なん?」
「次の年」
「?」
「いや、季節みたいだって言うから。冬の次は春だろう?」
「──。」

子供のような、どこか真直ぐななつきの言葉に、ふと視線を落として静留は薄く笑った。なつきは花火を見詰めている。静留はゆっくりなつきから視線を花火に移した。

「──なつきは、ええの?」
「うん? ああ」

こんな問い掛けに意味はない。話す気もない。これ以上何も知って欲しくもない。
小さな小さな豪奢な焔の花が散ってゆく。命にも似た。季節にも似た。

全部持って行くと決めている。
けれどそれでも。できるなら。
許されるなら。
ほんの、少しでいいから。
ただひとつだけ求めた声を、もう少し。

「‥‥なぁ」

──聞いていたかった。

「ほんまにええの?」
「どうした? 大体、おまえの物だろうが」
「うちの?」
「そうだろう?」

一度目を伏せた静留の口から、くすり、と小さな笑いが落ちる。

「もう返さへんし、離さへんよ?」
「当たり前だ。‥‥って、静留何の話だ?」
「花火の話やないん?」

手元の花火を見詰めて口許で笑んだままの静留に、なつきはほんの僅か困ったような顔をして息を吐くと、それから静留の手の中で移り変わって行く花火を見詰めている。

冬から春へと繋いだ花。やがて夏が過ぎ。秋の風情で風に散る。
同じ形は二度となく。それでもどこか姿を映して螺旋を描いて続いて行く。

「こない大事に大事にする花火、他にはあらへんなぁ」
「‥‥そうだな」

静留の手元の花火が終わりになると、ほら次の春、と火を灯した花火を、なつきはそっと静留に手渡した。

「返さなくていいし、離さなくていいぞ」

静留が目だけで問い返すと、なつきは真直ぐ視線を静留の手元に向けている。

「花火の話。返されたら困る」

なつきに倣って静留も線香花火に視線を落とした。覗き込むように光を眺めて、静留は微かに口許で笑って、何かのついでのように戯けた口調でぽそりと呟いた。

「‥‥ほな、今日はもう帰さへーん」
「この格好でバイクに乗れる訳ないだろう」
「ふふ、絶景やろね」
「おまえな」
「いややわ、ほんまに絶景」
「って改めて想像するなっ」
「ええ眺めやけど。ちょぉお行儀悪過ぎやね」

何を勝手に、と諦めたようななつきの呟きを他所に、ちらちらと光を散らしている手元を見詰めたまま、静留は静かに笑っている。
なつきはろうそくの火を消して、蚊取り線香の火を地面に着けた。

「──静留」
「ん?」

呼ばれて静留が見詰めた先のなつきは、自問するように地面を見詰めている。

「どないしたん?」

なつきは一度口を開きかけ、口を噤んで視線を真直ぐ地面に落としたまま横顔で微かに笑った。

「いや、いい」

そのまま立ち上がって細々した物を拾い出すなつきを、手元の花火で追い掛けられずに静留は問い返した。

「ええて、何が?」
「いいんだ。好きにするから」
「なぁ?」

コンビニの白い袋に使った物を無造作に入れ終わると、真直ぐ静留を見返したなつきは、祭の人混みの中、一瞬だけ浮かべていた優しい顔をしていた。

「でもな。信じて、いいぞ」
「──なにを?」
「知るか」

少し笑い混じりにそう答えたなつきは、自分に向かうように静かに少し俯き、もう一度静留を見た。

「でも、全部」

いつの間にか終わっていた静留の手元の線香花火を、なつきは手を伸ばして傍らの小さなバケツに入れた。そのまま取っ手を右手で掴むと静留に左手を差し伸べた。

「帰ろう」

目の前に出されたなつきの手を、一瞬、眩しい物でも見るように静留は見上げた。
綺麗な手だ。清廉な。そうあって欲しいと望んだ手。
何があっても信じていいと差し伸べられた手。

「ほら」

薄く笑ったまま手を取ろうとはしない静留に、促すようになつきは掌を一度揺らした。静留は一度俯いて淡いような笑顔でくすりと笑った。

「──兎」
「何言ってるんだまったく」

少し恥ずかしくなったのか、僅かばかり怒ったような声でそう言うと、なつきは静留の手を掴み、そのままぐいと手を引いた。

「───」

真直ぐ、真直ぐ前を向く。
何も告げなくても、先を示して跳ねてゆく。
追い掛けているのは、以前も今も同じこと。ただ。

「‥‥えらい力持ちな兎さんやなぁ」
「なんか言ったか?」
「ん、なんも。ほな帰ろ」

今はその手が、ここにある。

少し窮屈そうに白い袋とバケツを手にしているなつきから、ん、と小さな問答をして静留はひとつ荷物を受け取って、それからふたり並んで歩き出した。
公園を抜け、木の影が途切れると、なつきはふと惹かれたように空を見上げた。

「兎って言えば、月の兎って、おまえ見えるか?」
「ん? せやなぁ。よぉ見えますえ」
「ふーん」
「ふふ、なつき見えへんの?」
「なんだ嬉しそうに」

空の月から視線を前に戻し、なつきは少しむくれたように呟いた。明るい色の浴衣越しに涼しい夜風が流れて行く。

「まぁ、なつきには無理やろなぁ」
「うるさいっ。あんなの月のでこぼこだろうが」
「せや。鏡使たら見えるん違います?」
「え、そうなのか?」
「どやろ?」
「って‥‥おまえなぁ」

迷い込んだ暗い夜の真ん中を。
真夏生まれの真直ぐな、兎が一羽、道を示して跳ねてゆく──



(了)


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(初出:blank blog Aug 20, 2006


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