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湯煙が風に吹き曝される。
竹を編んだ囲いの向こうに霞のような白い水蒸気が流れて途切れると、深い濃紺の空に星が瞬いている。風は冷たいが、湯で火照った頬に心地よい。岩を組んだ露天風呂に浸かりながら、なつきはふぅ、と息を吐いた。また沸き上がりかけていた湯煙が僅かに息に踊る。身体を冷ましながら暖まっているようで、少し可笑しい。

「やっぱりいいよねぇ」

少し離れた場所で、舞衣が、日本人でよかったぁ、などとありふれた事を言っている。

「日本人じゃないと風呂には入れないのか?」
「んー、お湯に浸かる習慣がある国ってあんまりないの」

苦笑しながら舞衣は命に答えた。タオルをお湯に入れたら駄目よ、と嗜めながら命の頭に乗っていた、ずり落ち掛けたタオルを直す。

「ふんっ、珠洲城家の別荘にも温泉ぐらいありますのに。こーんな小さな露天風呂なんて部屋に個々に付いてますわ」
「まあまあ遥ちゃん」
「ご、ごめんなさい。でも、やっぱり同好会の忘年会に別荘はちょっと大袈裟かなーと‥‥」

雪之に取り成されて、ぷいと顔を背けた遥は少し残念そうな顔をしていた。立ち上る湯気に、なつきの視界からそれも紛れる。確かに、部屋に個々に露天風呂が付いている別荘では少々大袈裟な気もする。それでも結局は一生懸命なだけの遥に、なつきは少し笑った。
舞衣に聞いた話では、宿に心当たりがなく、珠洲城建設の社員用の保養所でも紹介して貰えないものかと雪之に話を持ちかけた所、いつの間にか別荘で忘年会にまで話が広がっていたらしい。

「このまま一杯、きゅーっといきたいわねぇ」
「あんた保健医でしょーが。身体に悪いってそれ」

白い湯気に霞んだ岩の向こうで、真っ当な事を言っている碧の声が聞こえる。そもそも忘年会の言い出しっぺは碧だったらしい。年末に少しはゆっくりしたい、とリンデンバウムのシフトを決める時に舞衣に話を振ったとか。結局、碧が風華の事を調べていた頃、少し足を延ばしてたまたま泊まったここに落ち着いたそうな。

柔らかいような湯に腕を遊ばせて、なつきはひとつ伸びをする。緩やかに流れ落ちる湯音。たまにはゆっくりこんな時間を過ごすのもいい。

そういえば、今日のバイトのシフトは深優が当たっているらしい。深優はこんな風に寛ぐ事はないんだろうな、と当たり前の事を考えた。あかねちゃんは今回はパス、と言った時の、舞衣の少し優しいような含み笑いはなんだったのか。

今日一日で解けた、分かってしまえばどうという事もない謎になつきはひとつ息を吐いた。物事を考えるのも馬鹿らしいような心地よい湯に身体を延ばす。溶けそうだ。風に曝されて冷たい頬だけが、なつきを現実に引き戻す。

──あいつ、遅いな。

ふと、静留がここにいて一緒に温泉に入っている光景が浮かんだ。

「ぶっ!」

なつきは思わずぶんぶんと頭を左右に振って、浮かんだ映像を振り払った。何だか酷く恥ずかしい。風に冷えたはずの頬に熱が上がるのが判った。

「何やってんのアンタ?」
「‥別に」
「馬っ鹿じゃない。挙動不審だっつーの」

隣の岩に身を預けていた奈緒が、左手を湯から出して眺めながらどうでもいいようになつきに話し掛けた。

「どうせ藤乃の事でも考えてたんでしょ。昼間もさぁ‥」

湯煙の中、奈緒は可笑しそうに顔を歪めて笑う。

「食事の最中にぼーっとしたり、景色見てる時に隣眺めたり。居ないっての」
「私は」
「はん。大方、旨いから食べさせたいとか綺麗だから見せたいとか考えてたんでしょ」

図星をさされてなつきは黙り込んだ。奈緒は気持ち良さそうに身体を延ばし、なつきに向かってにやりと笑ってみせる。

「まーアタシはあのセクハラ女が居ないお陰でゆっくり出来て嬉しいんだけどね。鴇羽とかもそうなんじゃない?」

ざばりと音を立てて、なつきは立ち上がった。何だか面白くない。なつきの細い裸身が風に曝されて熱が奪われてゆく。髪を纏めていたタオルを取って身体を隠すと、なつきは内風呂の方へ歩き出した。

「アンタさぁ、ホントに馬鹿なんじゃないの?」

呆れたような奈緒の言葉は、湯煙と水音に紛れ、なつきには届かなかった。



入江に近いローカル線の駅前は、年末の所為か行き交う人が多い。とっぷりと暮れた風景は、もう夜と呼べた。
静留はロータリーにタクシーが数台客待ちをしているのを確認すると、時計を見た。6時少し前。僅かな時間その場に立ち尽くして、小さな溜め息を吐くと踵を返す。そのまま静留は駅構内にある、セルフサービスの小さなコーヒーショップに入っていった。カウンターでコーヒーを注文し、空いているテーブルにつく。白いウールのコートを脱いで畳み、鞄と一緒に向かいの席に置いた。

宿は駅からタクシーで15分程だと聞いている。微妙な所だ。
あともう少し時間を潰してから行った方がいい。

口に含んだコーヒーは苦かった。静留はゆっくりとカップをソーサーに戻し、ガラス越しにぼんやりと外を眺めた。駅前は開けていて街灯や店の灯りで明るいが、岬の張り出した山間の方は、濃紺の空に黒い影を落として紛れている。寂れた景色。

食事が始まった頃に着ければ一番いい。多分7時頃だろう。その頃にはきっと風呂は済んでいる。
温泉は宴会を抜けてひとりで入ればいい。

ふと鼻で笑って、静留は再びカップを手に取った。

たかが一緒に温泉に入るだけの事やのに。

別に何がある訳でもない。当たり前だ。
けれど、どうやったら好きな相手が裸身で近くにいるのに意識しないでいられるのか。正直な所、今はもう神経が持ちそうにない。ふざけて誤魔化す余裕も平静を装おう自信もない。触れられないのなら見ない方がいい。

「‥味ないなぁ‥」

口にした苦いコーヒーに苦笑するように、少し俯いて静留はぽつりと呟いた。



二間続きの部屋を襖で仕切った、女子の荷物が置いてある部屋で、浴衣に丹前姿の奈緒は静留に偶然行き会った。静留は風呂に行くらしく手にバスタオルと袋を持っている。

「結城さんも一緒にどうどす?」
「行かないっつの」

絶対に断る事が解っているのだろう。残念やわ、などと笑いつつ、あっさり静留は部屋を出て行った。ふん、と奈緒は鼻を鳴らし、自分の鞄から携帯を取り出す。
セクハラ女と言ったのは、なつきをからかうための冗談だ。実際、静留の性癖を知らなければ今の会話だって普通の会話だ。ああやって構われる以外に特に何がある訳でもない。みんなで来てひとりで温泉というのも少し淋しい気がして、一緒に行ってやっても良かったかとほんの一瞬奈緒は考えた。

ま、あいつは玖我が居りゃそれでいいみたいだし。

奈緒は携帯を開くと手早く母親宛にメールを打った。今日見た岬から見下ろした夕焼けの映る海の写真を添付する。なつきがふと隣を見た時の風景だ。思わず奈緒は苦笑した。

ホントに馬鹿じゃないの?

「あ、奈緒ちゃん。良かったら、布団敷くの手伝ってくれない?」

部屋に入って来た舞衣に話し掛けられ、奈緒はメールを送信して携帯を閉じた。

「布団って、アンタもう寝んの?」
「みんなの分敷いておいて眠くなった人から寝ればいいかなって」

相変わらずの世話好きだ。奈緒は面倒臭そうに眉を顰めた。

「自分の布団くらい自分で敷きゃいいじゃん。なんなら男共にやらせなよ」

押し入れに向かっている舞衣に、アンタの言う事なら聞くんじゃないの、と奈緒が言っている側から黎人が一声掛けてから部屋に入って来た。

「ああ、舞衣さん。僕がやりますよ」

馬鹿馬鹿しくなって、携帯を丹前の袂に落とすと奈緒は宴会をしている隣の部屋へと向かった。



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