11
留守だと思っていた部屋から物音がしたような気がした。
なつきは壁に寄り掛かったまま、自分の左側の扉を見つめた。
さっきはまだ眠っていたのかも知れない。
マンションの通路を吹き抜けた風に、腕を組んだままひとつ身震いをする。寒かった。
壁から身を起こし、一度拳を握りしめ、真直ぐ顔を上げて、こん、こん、こん、とノックをする。
このノックだと、静留は誰何せずに扉を開けてくれる。それが何となく特別な気がして、いつからかは覚えていないが、この扉を叩く時は、この叩き方が癖になった。
でも今日は扉が開かない。
「‥‥しずる」
あれだけ傷付けたのだから当然だ。
俯いて酷く苦い思いを噛み締め、それでも、と、もう一度扉を叩こうと意を決して頭を上げた瞬間、視界が傾いだ。後ろに引っ張られたのに逆らって前にのめるとカクンと膝から力が抜けた。一歩が出ずに思わず扉に手をどんと突く。右手だけでは身体を支え切れずに、間に合わなかった左手を胸に抱え込み、受け身を取った左肩から背中にかけて扉にどしんとぶつかった。そのままずるりと扉に背中を預けて腰から地面へ滑り落ちた。右脇腹をドアノブに掠めて痛い。先程の身震いから震えが止まっていない。
まずい、な‥‥
痛みを堪えて少しへたばった後、じんわりと下半身に伝わってくる、染み込むような床の冷たさに堪え切れず、右手を突いて、それから足を立てて膝に手を突き立ち上がる。一度座り込んでしまうと立ち上がるのが酷く億劫で骨が折れた。
立ち上がった弾みに軽く眩み、体勢を立て直そうと、もう一度扉の左側の壁に寄り掛かった。寒気に肩を竦めて両手を組んだ。息を吐くと熱かった。白く風に紛れる。
情けないが仕方がない。ちょっとふらついただけだ。まあ少し休めば動ける。
12月の時も、静留はここにいた。だから何となく、ここでなら会えるような気がしていた。
どうすれば会って貰えるか解らないのに、扉の向こうに静留がいるのかも知れないと思うと、こんな時なのにその可能性だけでどこか嬉しい。
「‥‥‥」
何を言うべきか、纏まらない。でも、構わなかった。躊躇している余裕もない。
不安と焦燥を抱えたまま、もう一度扉を叩こうと考えていると、かちゃり、と鍵を回す金属音がした。肩と心臓が跳ねて意識が収束する。知らないうちに茫漠としていたらしい。
ドアノブを回す音がして、何か遠慮がちにゆっくりと少しだけ扉が開く。手が見えた。何かとても緊張した。
「‥‥おはよう」
色々と言うことを考えていたはずなのに、いざ静留を見ると、なつきの口から出て来たのは懐かしいような笑いと凡庸な挨拶だった。身体から力が抜けかける。扉から顔を出した静留は逡巡するような視線を上げると表情を変えた。
「な‥」
静留が自分の姿を凝視するので、なんでそんな顔をするのかと、なつきは自分の姿に視線を落とした。雨に濡れ風で生乾きになったライディング・スーツと、湿って乱れた髪が目に入る。まあ確かに見てくれは悪い。
「すまない」
血相を変えた静留に、なつきは苦笑いをして息をついた。心配を掛けてどうする。
静留は一瞬だけ苦しそうになつきから視線を外し、それからきっぱりとした表情になって左手で扉を開けた。
「はなしが」
「ええから。歩けます?」
よくなどない、と言いたかったが、ここでゴネていても始まらない。
静留に手を貸してもらって玄関に入れてもらい、なつきが玄関に座り込んでブーツを脱いでいると、静留は珍しく小走りになって部屋の奥へと消えて行く。濡れて脱ぎにくくなったブーツになつきが手間取っていると、何時の間にか戻って来ていた静留の手にはバスタオルが掴まれていた。
頭からバスタオルを掛けられて、なつきは静留を見上げた。なつきの頭を拭いている静留の唇は色を無くしている。酷く疲れたように顔色も良くない。
「立てます?」
返事をするのが億劫で、なつきは頷くと床に手を突いて立ち上がった。途中から静留が支えてくれた。なつきは内心で苦く笑った。緊張が解けてしまったせいか、思っていた以上に体調はボロボロだった。自分の愚かさに、ひとつ大きく息を吐く。
「苦しいん?」
その声音の、柔らかな綺麗な色。
左腕を取って支えてくれながら、気遣ってくれる静留の声に、なつきはふと胸を突かれて泣きたいような思いで一杯になった。目の前に静留がいる。ただそれだけのことが幸せで胸が詰まって苦しくなる。
「平気どすか?」
それなのに、なんだか腕も胸も虚ろで何かが欠けている。
見つめた先の赤みがかった瞳は心配そうな色を帯びている。目が、少し赤い。
傷付けて泣かせてしまったのかと思うと焼けるように切なくて、どうしようもなくなった。左腕に感じるのは静留の感触。何が足りないのかはもう解っている。
──もう迷わない。
「ごめん」
「な‥‥」
抱き締めたら安心して腕を離せなかった。ほっとしているのに胸が震える。腕の中の確かな感触を意識すると知らず鼓動が速くなる。
静留の髪に顔を埋めて、なつきは目を閉じて息を吐いた。
硬直したように動かなかった静留が、腕の中で少し大きく息を吸って吐いたのが解った。
「‥‥立っとるの辛いん?」
「すまない‥ぬれるな」
頭ではそう解っているのに、まだ足りなくて抱き竦める。静留の肩は細い。胸元に感じる身体は柔らかい。心地良い。なのにどうしてか切ない。
「ばか、だった」
「ええから。はよ着替えんと。ほんまに酷うなりますえ?」
優しい心地よい声なのに、淋しい。
頬に当たっている静留の髪が動いて、静留が顔を背けたような気がした。ただそれだけのことに胸が痛む。抱き竦めた腕にもう一度力を込めたかったが、力が入らない。意識が後ろに遠のきかける。聞こえてくる声が曖昧になる。このまま眠りたい。でも──
どこまで声に出来たのかわからない。意識が朦朧と溶けてゆく。
少し休んで動けるようやったら、車呼んで部屋まで送りますさかい
しずる
後で舞衣さんにでも連絡しときますな‥‥
しずる!
‥‥あんた熱でおかしなっとるだけどす‥‥
ちがう
‥‥さかい傷付けられへんだけ‥‥
ちがう
‥‥たはうちのこと好きやない‥‥
かってに
‥‥‥
ぼう、と気が付いたら目を開けていた。薄暗い。
どこ だ
緩慢に視線を巡らす。
見覚えは──
ある
でもこんな風には見たことがない。
だから か‥‥
──だれも いない
空虚な思いで意識が落ちてゆく。
そう か
こんなに
さみしいのは
かなしいのは
なまえを
わかって
よんで
もらえないから──
ぽつんと佇んでいる姿がある。
カーテンを少し開いて窓の外を眺めている。
薄茶の長い髪越しの横顔はどこか遠くを見ている。
なんでひとりでこんなに静かに苦しそうに泣くんだろう。
あの祭の時、戻ってきた時は、こんな泣き方はしなかった。
ちゃんと涙を流していた。
黙ったまま、空の遠くに何かがあるかのように、どこかを見つめている。
今度は、ちゃんと手も足も動く。
ああ、まず名前を呼ばないと。淋しいから。
‥‥しずる‥?
大丈夫、声も出る──
しずる‥‥
日も高くなって明るくなった室内に気付いて静留は寝室のカーテンを半分閉めた。休むには明る過ぎるだろう。
側にいたら駄目だと思うのに。
今は熱あるんやし。具合悪いんやし。
そう理由をつける自分が心底嫌だ。
でも本当に蒼白で、放って置けなかった。
ごめん 何が?
ばか、だった 誰が?
「‥‥‥」
真正面から抱き締められた。息が止まった。
あの時を、思い出した。
命を投げ出してまで止めてくれた。
過った思いはあった。でも。
──ただ、嬉しかった。
同情では嫌で。
‥‥嘘。
同情でも構わない。
‥‥嘘。
でも‥
それでこの子は?
この子は今度は何を無くす?
今度はこの子から何を奪う?
‥‥なあ、清姫。
うち、何を信じたらええんやろ。
「‥しず‥」
声に思わず振り向いた。
眠っている。ぼろぼろに疲れたような面差しで。
その声を聞くだけで、泣きたくなくても涙が落ちる。
こんな姿を見るだけで心が潰れたように痛む。
こんな目に合わせたのが自分だと思うと無性に腹が立つ。
「‥しずる‥」
──何を信じたらええんやろ?
───?
見慣れない天井をぼんやり見つめて気が付いた。
何か‥‥
‥‥静留?!
慌てて布団を撥ね除けた。弾みで額に乗っていたらしいタオルが布団の上に落ちる。
窓際を見ても薄暗い部屋には誰もいない。
「‥‥‥」
ひやりと背筋が空気に冷える。視線を落とすと見慣れない浴衣が目に入った。ぐっしょりと汗を吸っている。そういえば着替えさせてもらった記憶がある。恥ずかしさより腑甲斐無さが先に立った。なつきは少し俯いて奥歯を噛んだ。
タオルを拾ってサイドボードの上に置く。手にした濡れたそれは温い。
サイドボードには畳んだ浴衣とタオル、それに盆の上にコップと水差しと薬が置いてあった。薬は何となく飲んだ記憶がある。そのお陰か、身体は随分楽になっていた。風邪というより疲労と心労だったのか熱も下がっているようだ。
湿っぽいベッドを降りて部屋を出る。歩くと汗で重い浴衣が冷めてすぅすぅする。
「静留?」
返事はなかった。
居間に入る。こちらに背を向けてソファーに座っている静留を見つけて、なつきはひとつ息を落とした。近寄ると、背凭れに右肩と頭を預けて、少し横座りになって眠っている。
「‥‥‥」
眠っている静留は精根尽きたような苦しそうな疲れた表情で、顔色も悪かった。話したかったが起こすのも忍びない。
困って寝顔を見つめていると、汗で濡れた浴衣が身体にぺたりと貼り付いてひんやりと冷たい。
これ以上体調を崩して心配を掛けては話どころではない。取り合えず寝室に戻ると、なつきはタオルで身体を拭いて替えの浴衣に着替えた。
乾いた浴衣の布地は軽くさらりと肌に暖かい。
その暖かさが、心遣いが、何故だか無性に悲しい。
居間に戻ろうとし、そのままでは寒かったので、ベッドの足元の方に置かれていた予備らしい毛布を羽織った。
静留は先程と同じ体勢で眠っていた。
暖房が入っているとはいえ、なつきの寝ていたベッドには予備の毛布を置くくらいなのに、自分には何も掛けていない。
どうしてこうなのかと、淋しくなる。普段の静留の姿は見る影もない。昨日寝ていなかったのかも知れない。その横顔に涙の跡を見つけてまた淋しくなる。優しいのか悲しいのか解らないものに胸が詰まる。少し腹も立っていた。
寝入っている姿が寒そうで、なつきは羽織っていた毛布を広げると、静留の肩に掛けた。
この、馬鹿。
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