blank_logo  <舞-HiME SS>
find
 

10

あの屋敷は思い出すことが多過ぎて、始発で部屋に戻った。
西の空、雲間から低く月が出ていた。目を逸らした。

髪から雨の匂いがした。
明るい所にいるのが億劫で、灯りをつけずに水を浴びた。
着替えて濡れた髪のまま、タオルを被ってソファーに座り込むと、もうすることはなかった。

眠れない夜が明けるのは、少々惨い話だ。
止まったように引き延ばされた時を持て余し、悶え苦しんで朝に餓える。
そして明ければ、今が現実なのだと思い知る。
もともと心を偽って動くことには慣れている。息苦しくて仕方がないのに呼吸が止まってしまわないのも、動けないような気がするのに身体を動かすことができるのも、理不尽なようでいて、さして不思議なことでもない。
世界は別に終わったりしない。時は止まったりしない。
ずっと際限なく流れ続ける。乾いたままで胸に溢れ続ける熾のような黒い熱いものを伴ったまま。

けれど少しは上手く壊れてくれたようだ。
喘ぐことすら必要ない。苦しくて感覚が鈍い。今は静かだ。

「───」

薄闇の中、目に映る物に浮かぶ姿に立ち上がる。
ここより寝室の方がきっとまだいい。あまり居なかった。
理由に思い当たってふと笑う。あたりまえだ。

これ以上傷付けたくない。
突然居なくなったら気にしてしまうかも知れない。
いや、気にして欲しいからそう思うのか。

熾が赤く色を増す。溢れ出す。身体が何か虚しいものでできている。

立っていられずに、ベッド脇に座り込んで突っ伏した。
寝室は冷えきっている。頬の下の髪が冷たい。ベッドが濡れてしまう。
そのまま動かずにいた。

思っていたよりずっと情けない。
ひとつ鼻で笑って、両手をベッドに突いてゆっくり立ち上がり、髪を乾かしにゆく。
なんだかバランスが取れない。思いついたことをそのままやっている。
先のことが考えられない。

薄明るくなってきた寝室に戻り、片手を突いてベッドに座った。

あとなにをすればいいだろう。
なにをしてあげられるだろう。

思い浮かばない。
相変わらず、何も解らない。

──あかん、ほんまおかしなっとる

ふと可笑しくなって、声を出さずに笑った。
解らないも何も、何もする必要はない。
する必要があるのなら、こんなに惚けてはいない。何を置いても動いている。
何ができるではない。何も“してはいけない”
このまま離れればいい。

苦く黒く熱い。滲む。

取り合えず、ここを離れた方がいい。どこへ行こう。

可笑しい。
どこにも行きたくない。欲しいものもしたいこともなにもない。

壊れるなら早く全部壊れて欲しい。
熾が溜まる。淀む。わだかまる。息苦しい。
溜まるだけ溜まってわだかまり続けて出口がない。
いっそ身体が裂けてしまえばこの重圧から解放される。

可笑しくて仕方がない。
俯いたまま、声を上げずに途切れ途切れに小さく笑い続けた。



ノックの音に、悄然とベッドに座り込み、俯いていた静留の肩がぴくりと跳ねた。
三つ目のノックが小さく響くと、寝室からでは見えない玄関の扉の方角へ、静留は呆然とした面持ちで緩慢に顔を向けた。

まだ朝も早いこんな時間。
その音もタイミングも、よく知っている。
あまりに焦がれ過ぎた幻聴かと耳を疑った。
闇の中で聞いたような、そのノックの音は胸に鮮明に痛かった。

なつ‥き‥‥?

見えない扉に目を見張る。

‥‥なんで‥‥?


扉の外になつきがいる。なつきが呼んでいる。
今応えたら戻れるのだろうか。

無意識にベッドから腰を浮かせた自分を息を詰めて引き止め、腰を落とすと静留は俯いた。

あかん。

答えられずに目を逸らして俯いたなつきを思い出す。
酷く苦しそうで、思い出すと、受け入れて貰えなかったことが辛いのかなつきが苦しそうなのが辛いのか解らない。

単純なことほど逃げ道はない。
刃を持ったままでは、なつきの側にはいられない。

せやね‥‥
うちはなつきの側にいたらあかん。

「‥‥‥ふ」

ふつりと何かが切れて、小さな掠れた笑いが漏れた。視線を落とした赤みがかった瞳から、やっと涙が零れ落ちた。静留は睫を臥せると、ようやく呼吸ができたかのように息を飲み、ゆっくりと吐いた。

優しい子だからきっと許してくれる。でも同じ過ちを繰り返したくない。
身も心も求めているから側にいたい。だからこそ側にはいられない。
気持ちを押さえ切れずに、きっとまたなつきを踏み躙って傷付ける。
昨日堪えられなかったのに、どうして明日堪えられる。

もう一度、ノックの音がした。

静留はベッドに突いていた左手でシーツを握り締めた。俯いたまま奥歯を噛んでぎゅっと瞳を閉じる。
穏やかなまま過ごせれば構わない。けれど求めているものが違う。
これ以上傷付けたくない。苦しみたくない。同じ苦しむのならなつきを傷付けない苦しみの方がいい。

三度目のノックの音はしなかった。

ぎゅう、とシーツを握り締めたままの左手はずっと震えていた。ぱたりぱたりと薄茶色のスカートに水滴が落ち、濃い染みを作る。

これでええ。もう傷付けへん。

呻くような、小さな小さな笑い混じりの息が漏れた。
ぱたぱたと、いくつかまた水滴が落ちた。

冷えた部屋は、時折零れる吐息以外、沈黙に染まっている。
すっかり陽が昇ったのか、カーテン越しにも外は明るかった。

幸い今期の大学の授業はもう済んでいる。取り合えず、実家かどこかに出掛けて暫くここへは戻らない方がいい。偶然ばったり出逢ってしまうかも知れない。顔を合わせて平気でいられる自信はない。その先のことは出先でゆっくり考えればいい。

荷物を纏めなければ、と思いながら、静留は動けずにぼんやりベッドに座り込んでいた。

どれくらいそうしていたろうか。

くしゃん、と外から音がした。

‥‥ぇ‥

どくんと心臓が跳ねて、静留は思わず顔を上げた。
暫く身じろぎもできずにじっと耳を澄ませていたが何の音もしない。指先で涙の跡を拭って一度小さく鼻を啜り、覚束ない足取りで、何となく音を立てないよう気を使いながら寝室を出て玄関に向かった。

またひとつ。

くしゃん。

近付いたせいか、先程よりはっきり聞こえた。くしゃみのあとに、ぅ〜、と寒さを堪えるような声までしていた。

‥‥なつき‥

胸が熱くて先程とは違った涙が滲んだ。静留は玄関の扉の前で胸元に手を当てて俯いた。一緒にいられればそれだけで、優しくて暖かくて柔らかい。何もかも無くしてもいいと熱くて焦がれるのに、そこになつきを想うだけで胸が満たされて気持ちがまあるくなる。思わず力が抜けてその場にしゃがみ込みそうになった。てっきり帰ってしまったのだと思っていた。

静留の口許に、苦いような自嘲の笑みが浮いた。それを望んでいたはずなのに、こういう時だけ気持ちは素直で現金だ。
きっと許してくれるつもりだから待っていてくれている。
だから扉を開ける訳にはいかない。苦しむと解っていても拒むことができないのは自分が一番解っている。

でも大丈夫なのだろうか。
昨日は風邪などひいていなかった。
あのまま雨に濡れてしまったのだろうか。でもあそこはなつきのマンションの前だ。

「‥‥‥」

ノックの音がしたのは6時半くらいだったろうか。正確な時間は解らない。かれこれ2、30分は経っている。今朝は雨上がりで冷え込んでいるのに。

静留は胸元の右手を握り込み、玄関の扉から視線を落とした。三和土には、昨日の雨でまだ少し爪先が湿っている濃茶の自分のブーツが一足揃えて置いてある。

あかん。
うちはただ、ドアを開けたいだけや。なつきに逢いたいだけや。

静留は玄関の扉に背を向けた。数歩玄関から離れかけたが、後ろ髪をひかれてそれ以上進めない。胸に軽く握った手を当てたまま、俯いて瞳を閉じ、頭を静かに左右に振る。薄茶の長い髪がふわりと揺れる。

そういえば昨夜は、なつきの髪も濡れていた。
ちゃんと乾かして暖かくして眠らなかったのだろうか。

静留は戒めのように両手で自分の身体を抱き、両肘を掴んで、俯いたままもう一度静かに頭を左右に振った。

放っておけば諦めて帰るだろう。ここを出るのは遅くなってしまうが、まだ行く先も決めていないし、電車の切符を取ってある訳でもない。なつきが帰ってから部屋を出ればいい。

「‥‥‥」

音を立てない為にスリッパを履かずに素足で踏んでいる廊下はとても冷たかった。でもここよりも外はもっと寒い。玄関の前は吹き抜きで、日陰の吹き曝しだ。そんなところになつきをいつまでも放っておくのか。

ただの言い訳や。
終わりにするて決めたんやないん? 
傷付けるだけやから、困らせるだけやからもう止めよて、決めたんやないの。
なつきかて子供やあらへん。うちが気にせんでも自分の身体のことくらいちゃあんと解ったはる。

でもなつきのことだから、無茶をしてなかなか諦めないかも知れない。
風邪をひいているのなら酷くなってしまう。

ええかげんにしい!
なつきはうちを受け入れられへんて、側にいたら駄目やて解っとるやろ!

普段はこんな朝早くから行動する子ではない。
もしかして一晩中寒い中走り回っていたのだろうか。
濡れるからちゃんと帰れと言ったのに。
昨日の雨に降られたんだろうか。
寒そうに唸っていた。震えていないだろうか。
熱は出していないだろうか。大丈夫だろうかなつきは。
なつきは、なつきは、なつきはなつきはなつきは

なんでうちは

静留は顔を両手で覆ってその場に座り込んだ。広がったスカートと薄茶の髪が静留の身体を追って舞い落ちる。

もうあかんのやて、なんで解らんの──



<top> <9> <11>

Copy right(C)2006 touno All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送