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飲み終わった茶を下げて、静留が台所から戻って来た。

「ありがとう」
「かまへんよ」

なつきににっこり笑いかけて、静留は先程も座っていたソファーの右端の席に座る。なつきは肘掛けに左腕を預けて静留の方を見た。

先ほどまでトレイの置いてあった、真ん中の席がぽっかり空いている。
その向こうで、静留はソファーの肘掛けに右腕を凭せかけ、背凭れから身を起こして綺麗に座って、飽きた様子もなく月を眺めている。薄いクリーム色のブラウスが柔らかな陰影を描いていた。
月明かりに照らされた、少し見上げるような整った横顔は穏やかな美しさを湛えている。無口になっているが、ただ月に見蕩れているだけらしい。
なつきはもう一度ソファーに目を落とした。
なつきは静留の方へちょっと詰めて座りたくなったが、それも何だか変なような気がして、結局そのまま動けずに黙り込む。

「どないしたん?」

その声に、知らず落としていた視線を上げると、いつの間にこちらを見ていたのか静留と目があった。なつきは、別に、と少し笑う。
静留はゆったりと腰を浮かすとソファーの真ん中に移動して、片手で焦茶のスカートの裾を捌き、なつきの方に少し身体を向けて浅く腰掛けた。問いかけるように少し小首を傾げてなつきの顔を見ている。
なんとも自然になつきの横にあっさり座る静留に、なつきはちょっと言葉に詰まる。

「‥‥‥」
「お月見、退屈やった?」
「いや。綺麗だし。普段こんなにゆっくり月を見ることなんてなかったしな」

お茶も美味しかったし、となつきは付け加えて静留に笑いかける。
上手く説明できそうもない。

「せやったらええんやけど‥」

まだ納得していないような静留に、なつきは改めて言葉を探す。

「‥いや、どうしてそんなに簡単に隣に座れるのかと思って」
「あ‥堪忍‥嫌やった?」

何を思ったのか、少し目を伏せて静留は席を移ろうとする。なつきは慌てて続けた。

「嫌じゃない。そうじゃないんだ。近くにいたいと言ったろう?」

静留がちょっと赤くなったような気がして、なつきは言ってしまってから赤面した。上手く説明できないのに増々混乱してしまう。

「あー、だから‥どう言えばいいんだろう‥」

無邪気に抱きついてきた命。命の髪を梳く舞衣。隣に座ってくれた静留。
近くにいたいのに動けない自分。
結局、どんな言葉も上手く繋げられなくて、静留から視線を逸らせて、なつきは正直に自分のことを、ぽつりぽつりと紡ぐように口にした。

「本当は、そこに座りたかったんだ。でも、座れなかった。特に理由はなかったから」

なつきが何を言わんとしているのか理解したのか、静留は優しい声で返事をする。どこか願うような響きを帯びている。

「したいようにしてくれはったらええのに。‥うち、ほんまに嬉しおすえ?」

なつきは静留の言葉に苦笑する。したいようにできないから困っているのだ。

「したいように、か。よく解らないな。こういうのは苦手だ」

そう言いながらも、なつきはまだ納得できず、静留の方を見なかった。
苦手だけれど、答えがみつからなければ、近くにいたいと思う気持ちは宙に浮いたままになってしまう。

「‥‥難しく考え過ぎなんと違いますん?」

静留の声は気遣うように優しかった。だが、その言葉になつきは、ほんの少し疎外感を感じる。
静留は舞衣や命と同じで、自然に人に触れられる。
だからきっと、解ってもらうのは少し難しいのだ。

なつきはソファーの背凭れから背中を起こし、両肘を自分の足に預けて、少し前屈みになった。なつきの素直な黒髪がさらりと滑った。 少し苦笑混じりになつきは言葉を続ける。

「そうかも知れない。でも、静留のようにはなれないな」

なつきは少し俯いたまま、自分の手を見る。暫くの沈黙。
そんななつきの様子を見てか、静留がついとソファーから立ち上がった。なにかと思ってなつきは視線を向ける。静留は後ろに手を組んで、なつきの正面で振り向くと、そのままちょこんとなつきの頭に口づけた。

「なっ!」

なつきは真っ赤になって、思わず責めるような視線で静留を見上げた。静留はそれを気にも止めない様子で、愛おしむような瞳でにっこり笑っている。微かに首を傾げ、柔らかい口調で静留は言葉を続けた。

「なんや分からんけど、あったかい思わへん?」
「なにを‥‥」

右手で額と頭頂部の間あたりを押さえながら、なつきは口籠って俯く。驚いたのと恥ずかしさで顔が火照っただけだと始め思ったが、胸の辺りが少し疼いた。

「うちが小さい頃、面倒見てくれはった人がようこうしてくれましてん」

静留は後ろで手を組んだままゆっくりと話し続ける。

「なあんも言われてへんのに、好きや、ええ子や、言われてる気ぃしてな、嬉しかってん。‥‥うちはそれだけのことや思いますえ?」

それは解るような気がする。
だが、幼い頃にそれを与えてくれる一番親しいものを無くした。
ひとりは事故で。ひとりはその人自身の幸せのために、なつきの側から離れて行った。
なつきは右手を降ろした。諦めたように笑って、素直に呟く。

「私には、そういう経験はあまりないな」

置き去りになった幼かったなつきの心は、人に甘えることに頑なになった。自然、人に触れることも触れられることも少なくなった。
舞衣は慣れだと言ったが、なつきには、そもそも慣れることができる環境がなかった。
なつきは一度俯いて、それから真直ぐ顔を上げると、落ちた前髪を右手でかき上げた。記憶の中の静留の残した感触が自分の手の感触で塗りつぶされてゆく。 すべてを消したいのか、それとも失いたくないのか分からないままなつきの掌が止まる。

人と触れあわなくても、距離を置いていても、生きてはゆける。
──でも、本当は。

止まった右手を、そっと包むように掴まれた。少し驚いて、なつきは視線を上げた。月明かりの影の下、繋いだままの手がゆっくり降ろされてゆく。綺麗に整った冷たい手。でも柔らかくて優しい手だ。視線を移すと、弱い逆光の中、静留が深いような笑顔をなつきに向けていた。なぜかその月影の中の赤みがかった瞳に、静留の方が傷ついているような気がして、何か悪いようでなつきは視線を落とす。

「‥堪忍‥。そないな顔させたかったんやないんよ‥」

静留の右手が、ゆっくりとなつきの髪を梳いた。静留の指が梳く自分の髪は、なぜかとても柔らかく感じる。なつきは目を閉じた。視覚が遮断され、闇の中、静留に髪を梳かれる感覚が一層はっきりする。繰り返しゆっくりと頭に触れる指が心地よくて、ずっとこうしていたいような気がした。

「‥うちでは、あかん?」

瞼の闇に聞こえてきた、ゆったりと優しいのに、どこか寂しい小さな声。心に染み込んでくるような。

そうだった。
ひとりで意固地に頑張っていた自分に踏み込んで来てくれたのは静留だった。あの頃からもう、ひとりじゃなかったじゃないか。

静留の指は、傷を癒すような優しさで、宥めるように柔らかくなつきの髪を梳き続けている。すべて委ねていいのだと思えるような気持ちの良さに、なつきは素直に口許に笑みを浮かべた。

「‥‥本当だ。暖かいな」

髪を梳いていた静留の手がゆっくり止まった。目を閉じたまま、なつきが少し惜しいような気持ちでいると、暫くしてなつきの右手の指先を包んでいる静留の指先の力が、きゅ、と少し強くなる。微かに震えているような気がした。髪を梳いていた指が離れて、熱が消えてゆく。
閉じた瞳の闇。視覚がない分だけ、他の感覚はいつもより敏感になっている。
消えそうなほど小さく、堪忍、と掠れたような声が聞こえた気がした。近付いてくる気配。感じる熱。ゆっくりと、なぜだか心が静かに騒ぐほど優しく、髪に口付けられたのが分かった。
落とされた口付けは先ほどとは全く別物だった。
心に響いてくるそれは静謐で。なのに秘すことが出来ないほど熱い。そして心が切れそうなほど一つの方へ向いている。
それは祈りにも似て。懺悔にも似て。いい子、でも、好き、でもない。
伝わってくるのはただひとつ──

やがて離れた感触に、なつきはゆっくり目を開けた。
目に入ったのは薄闇に浮かぶ静留の身体。後ろに見える窓の外には、静留の影になっているのか月の姿はない。広がっているのは月明りに照らされた夜。
なつきは視線を上げる。髪を押さえていたのか、静留は耳のあたりから右手を降ろしながら身体を起こし、明るい闇を背負ってなつきを見つめている。
月光に陰って、それでもはっきりと瞳に映る静留は見たこともない真摯な眼差しだった。笑顔を捨てた静留の顔からは穏やかさが消え、いっそ冷たいほど綺麗だ。なのに何かに怯えているようで、崩れ落ちそうに儚い。微かに震えるような、じっと語らず頑なに噤んだ口許。嫣然と笑む静留とはまるで掛け離れている。なのに、これが静留の素顔なのだとなつきは思った。こんな孤独な表情を幾重にも幾重にもいつも笑顔で隠して。

奇妙に測りがたい時が過ぎた。実際に見つめあっていたのは数秒だったのかも知れない。
静留が視線を外し、内に向けるように、寂しいような笑みを微かに浮かべた気がした。なつきの右手から静留の手が解かれる。静留は顔を背け窓の外の月を見遣やるように後ろを向いた。僅かに靡く薄茶の髪。
やがてなつきに顔を向けた静留はにっこりといつもの笑顔だった。静留は一瞬なつきと合った視線を、自分の内に微笑むようにして逸らす。

「堪忍な‥。うち、そろそろ帰ります。お月さん大分高うおすし」

月明かりを受けた静留がなつきに背を向けて歩き出す。
失われた温もり。なのに胸に残る感覚。縋るようだった瞳。遠ざかる。
だからひとりで結論を出すなと──

「静留!」

なつきはソファーから立ち上がって静留を呼び止めていた。
突然の強い声に驚いて振り向く静留に、なつきは言葉の続きがすぐに出てこない。ただ単に、まだ側にいたかった。それをなつきは上手く言葉に出来ない。

「送って行く。月見の続きだ」

断られたくなくて今一つ解らないことをなつきは口走った。それでも静留を真直ぐ見つめる。ちょっとびっくりしたような静留は、それから安堵したように微笑んだ。

「おおきに‥うれしい」

薄闇の中、窓から差し込む月光に染まった静留のその微笑みは夜露に濡れた花のようだった。
静留のその笑顔になつきは思わず掌を握りしめる。
なつきの方に向き直って微笑んでいる静留はいつもの静留のままで。 なつきの様子に、なんやろか?といった風情で、柔らかい笑顔を浮かべてなつきを見ている。
それがなぜだかとても頭に来る。
まだ何か言い足りない。なのに言葉がみつからない。何を言っても届かない気がする。それでも、伝えたい。
目紛しく思いながら、訳の分からない苛立ちになつきは静留から視線を落とす。握りしめた拳が視界に入った。
不意になつきは、ああ、こういうことなのかと気が付いた。思いの遣り場がなくて握りしめていた右手の拳をゆっくり開く。やっと答えが見つかって、なつきはとても落ち着いた気がした。

触れたいと思うのは。

静留の方へ近付いて右手を差し伸べる。不思議と照れたりしなかった。知らないうちに自然と微笑んで、なつきは静留の前髪をくしゃりと優しく掻き揚げる。静留の髪は軽くてとても柔らかい。
静留はなつきを見つめたまま、何が起きたのか解らないかのように笑顔も忘れ固まった。間を置いて、凄い勢いで静留の頬が紅潮する。普段では絶対見られない静留の妙に可愛い様子に、なつきは笑ってもう一度その髪を梳く。やはり柔らかくて心地よい。

「‥なつき‥なん‥」
「知らなかった。こうしている方も、暖かいんだな」

頬を染めたままで、困惑しているような静留の様子になつきは思う。
もう少し。伝えたい。流石にこれは照れ臭く、なつきは頬が熱くなるのを感じた。それでも。

「お返しだ」

柔らかい月明かりの下。
なつきは少し背伸びをし、静留の髪に、素顔の静留に届くようにと心のままのキスをする。



(了)


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