3
なつきの部屋の掃除と夕飯づくりも兼ねて、月見はなつきのマンションですることになった。
掃除も食事も後片付けも済んだところで、窓際に移した深い群青色のソファーに静留は座る。用意した和菓子とお茶は、零すからと静留が反対したのだが、結局置き場所がなくてトレイごと3人掛けのソファーの真ん中に置かれていた。
「そうだ、ちょっと待っててくれ」
そう言ってなつきは立ち上がろうとする。予期していたかのように静留は左横にあったトレイを持ち上げた。やっぱり零しそうで落ち着かない。
「あ、すまない」
と言いつつ、なつきは玄関の方へ向かう。そのまま部屋の明かりを落とした。
「こっちの方がよく見えるんじゃないか?」
「せやねえ。けどお台所は消さんといて。全部消したら足下危ないわ」
月見のイメージからは掛け離れたどたばた加減だったが、なつきがソファーの左端に腰掛けてやっと落ち着いた。静留がトレイをソファーの真ん中に戻す。
「零したらあかんえ?」
「分かっている」
月明かりの下、ジーンズとTシャツというラフな姿で、なつきは前を向いてソファーに座っている。なぜか少し畏まった様子でそれが妙に可笑しい。そんな所まで愛おしくて、静留は気付かれないように少し微笑む。
「なあ、静留」
「なんどす?」
気付かれたかと内心驚いて静留は答えた。なつきは神妙な面持ちのまま月をじっと見つめている。まるで月と睨めっこでもしているようだ。
「で、月見って何をするんだ? 正式な作法とかあるのか?」
「そうどすなあ‥こんな風にお月さんにお供えもんして」
「うん」
「後は、お茶の席設けたり、お琴の演奏やら踊りやら奉納しはる所もありますな」
なつきは睨めっこを止めて、明らかに引きつった顔をして静留を見返していた。
「他にも、歌を詠んだりし──」
「もういい。向いてない」
なつきは先ほどの神妙さとは打って変わって、どっかと右手で頬杖をついてそっぽを向いている。どうしてこんなに素直に態度に出してくれるんだろうかと、堪え切れずに静留は笑う。
「安心しぃ。別に今ここでお茶点てたりせえへんよ。ほんまはうちもよう知らんし。せやけど‥」
静留は言葉を切る。なつきは静留に視線を向けた。静留は柔らかい笑みを浮かべると、なつきから窓の月に視線を移した。
「お茶もええ思うし、ほんまに好きやけど。お月さんにはなんやかなんなあ」
律された対話のなかで広がる、もてなす者の思いともてなされる者の思いの真剣な間合い。一種澄んだ険のない空間。
それは人が何かを問いつめた果てに見い出された美しさだ。
だが、月は違う。人の手など介さなくても、ただそこに在るだけで美しい。ある意味で対極。
「‥えらい別嬪さんどすなあ」
「別嬪? 月が?」
なつきはちょっと理解に苦しむように言葉を返す。静留は穏やかになつきを見つめた。熱のない明るい月光を浴びて、なつきは静留を真直ぐに見ている。艶やかな黒髪が僅かに光を返し、闇に溶けている。
心を吐露するように、静留は微笑んで言葉を紡ぐ。
「綺麗やなあ、て」
「つまりそうやって、月を眺めていればいい訳だ」
「そう思いますえ。ほな、お茶頂きましょか。」
なつきは湯飲みを手にする。静留は月に一言断ってから供えていた和菓子をひとつづつ取り分けて、なつきに勧める。それから湯飲みを両手で持ち、再び窓に目を遣った。
道路を挟んだ向いの建物が月光を浴びて夜に沈んでいる。その上空に幾許かの細い雲を従えて月がしんと輝いている。車の行き交う騒音も聞こえるが、月を眺めていると不思議と気にならない。僅かに影を落としていた雲が風に流れ、真円の月が姿を現す。
綺麗で、冷たくて、静かで。気紛れに形を変えて。
どこか孤独に見えて。光は寂しいような柔らかさ。
それでも何となく優しいようで。
そこに在るだけで美しい。
そして、絶対に手は届かない。望むことすら無意味だ。
月となつきはどこか似ている。
だから一緒に見たかったのかも知れない。
見つめずにはいられないのに、ひとりで眺めるには、月は少し寂しすぎる。
静留は手にした茶を一口啜ると、黙って月を見つめ続けた。
|