耳もとで、プツ、となつきが電話を切る音がした。
受話器から聞こえてくるツー、ツーと規則的な音はいつも味気ない。
静留はゆっくり受話器を降ろす。
まだ声を聞いていたかったが、なつきは元々長電話をするタイプではない。自然、用件のみになりがちだ。それでも以前より雑談が増えた気がする。
静留は壁際の電話から離れ、窓に向かってカーテンを開けると、傍らのソファーに腰掛けた。背凭れには寄り掛からず、身を起こしたままで窓の外を見る。少し更けた夜。微かな喧噪。傾いた月と、まばらな星空。
晴れるとええんやけど‥
数日後には満月になる。仲秋の名月。
なつきは興味がないかも知れないが、一緒に見ようと静留は誘った。
綺麗なものはふたりで見たい。
‥‥違う‥一緒に居たいだけや。
ちょっと笑ってしまいながら、静留は思う。
近くにいたい、と言ってくれてから、なつきと逢う機会が増えた。
それが静留は嬉しい。なにより、なつきの方から誘ってくれることが多くなった。
まあ、照れ屋で意地っ張りのなつきのことだから、初めてバイクに乗せてくれた日以来、あんな風に甘えてくれる訳では無いのだけれど。
あれからなつきの方からバイクで何処かへ行こうと誘われたことは無かったが、ちょっと甘えてみたくてバイクに乗せて欲しい、と頼むと、なにやらぶっきらぼうに乗せてくれる。嫌がっている訳ではないようなのだが、なにかぎこちない。
今のなつきは、出会った頃のなつきを少し思い出させる。
あの頃のなつきは、少しずつ静留を受け入れているなつき自身に戸惑っているようだった。
受け入れると言っても、大抵は文句をつけて、それでも、仕方がないからとか、このくらいならとかいった感じだった。その意地を張っているような素振りが可愛くて、増々静留はなつきを構った。時折、至極素直に静留の言葉に笑って応えてくれて、抱きしめたくなるほど嬉しかった。
ずっと孤高を守ってきたなつきは、人と接触することに慣れていないのだろう。
人肌が恋しくても、どうしていいか分からない。
見るともなしに夜の住宅街に視線を投げていた静留の瞳が、す、と翳りを帯びる。
──人肌が恋しい。
それは静留と同じ気持ちではない。
少し違うような気がするとなつきは言った。静留も実際そうだと思う。なつきは静留を”欲しい”と思っている訳ではない。ただ人と共に在る温もりが欲しいのだ。片親で育った静留にしても、その思いは解る。ましてやなつきは人を遠ざけて生きてきた。
‥優しい子ぉやのに、自分の事には意地っ張りやから‥。甘えるの下手やし‥
なつきの姿が思い浮かんで、静留は少し切ないような気持ちで微笑む。前を真直ぐに見つめる強い瞳。それでいて、ちょっとからかっただけで照れて赤くなる。
淋しくなどない、と言わんばかりに風に向かって強い視線で遠くを見つめていたなつきを思い出して、胸が苦しくなるほどその姿が愛しい。
思い出に押されるように静留はソファーに凭れ、天井を見上げた。そして想いを抱き締めるように目を閉じる。
「なつき‥」
名を呟くだけで心が震える。
どこか、遠くを見つめていた。遥かを追うような目をしていた。
視線は真直ぐで美しい。
それだけに見ていて淋しい瞳だった。
今のなつきはあんな目をしない。
なつきが温もってくれるのなら。
もう遠い目をしないでいてくれるのなら、それだけで嬉しい。
”こんな風に近くにいるために”
なつきがそう思う人間が、誰でもない自分だということが、信じられないくらい幸せだった。
その夜、静留は夢を見た。
黒く沈んだ深い森に囲まれた静かな湖は、柔らかな月光に包まれている。
その畔で、月明かりに染まって静留は白い月を見上げて佇んでいた。
何かを思うように視線を落とした静留の動きが止まる。
鏡面のような湖に、僅かに揺らいで月が映っていた。
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